[対談]大友良英×藤田貴大 ― コレクティブ・オーケストラは芸術祭の縮図である / Collective Orchestral may embodiment of the Sapporo International Art Festival.
アクターとリアクター
藤田 音楽をやるとか演劇をやるって、結構格好付けた言葉だと最近は思うんですよね。実はそこに人を呼ぶっていう作業でしかないと思うんですよ。演劇も、出演者が結局、舞台に立って、せりふを言うっていうことをやるのかもしれないんだけど、出演者だって、その劇場に、今朝起きて歯磨いて来てるわけじゃないですか、出演するために。それと観客の皆さんが、朝起きて歯磨きして、劇を見ようと思って来るっていう作業って、別に変わんないんじゃないかなと思った時期があったんですよ。22歳くらいの時にそういうことを考えていて、生意気にそれを言語化しようと思っていたころがありました。
大友 どんなふうに?
藤田 アクターって言うじゃないですか、俳優のこと。だけど、リアクターっていう言葉もあって。リアクターっていうのは反応する人、リアクションを取る人のことですね。観客のことを、リアクターと言う場合もあります。
見て聞いたりすることを、観客の人たちはするわけなんだけど。その『リ』を取っただけで、アクターになるわけですよ。だからアクターも、ただのリアクターでしかないんじゃないかな。僕のせりふを言うっていうリアクション、僕に対してリアクションを取ってる人ってだけで。だからそういうレベルでは、劇場なりその場所に来るっていうことは、観客も俳優も変わりないんじゃないかなと思って。僕も演劇をやるというよりは、人を招くことを、与えられた場所でやってるだけなんじゃないかなと思っていたんですよ。プロの俳優と作品のクオリティを高める作業は、必要なことだと、もちろん思ってるから今もやってるけど。それだけだと、面白くなくなってくるんですよね。
逆に全く何もなくて、もっと生々しい日常を持ってきてくれるような、まだ舞台に立ったこともないような人とやると、そうだよねって気付くというか、根本的にはそういうことだったよねみたいな問題にぶち当たります。舞台に上がるの恥ずかしいよねとか気付くことが実は、プロとマニアックな作業をするときの、一番の勉強になる。
大友さんと出会う以前から、何となく考えたことが、大友さんと出会ったときに、そのことがよくわかりました。僕は、音楽って技術のことだと思ってたんですよ、演劇よりも。どういうコードが弾けてとか、テクニックは確実にあるだろうから。大友さんのワークショップを見るまではやっぱり、もっと技術の世界だろうなと思っていました。大友さんがスタート地点としておいてるところが、技術とかじゃなかった部分が、僕はすごく、音楽とか演劇とかじゃなくて、そういう場所を作る人として、最初っからリスペクトできた。今一緒に作業をし始めて、もう3年目ですけど。こんなに一緒に、長い期間やってる人、続けて長い期間、一緒に創作してる人もいなくて。
大友 そうだね、オレにしてもそうかもしれないね。
音未満と演劇未満
有馬 さきほど藤田さんが大友さんに「音未満」とおっしゃったのですが、藤田さんが福島でやられていたのも最初からかなり終盤まで「演劇未満」でしたよね。私たちも本当にびっくりして見てたんですけど。
大友 そうなんです。人のこと言えないんですよ、藤田さんも。ミュージカル作ってるときに、4月5月から、12月になってもずっと鬼ごっこや椅子取りゲームやってるし。他にもいろんな違うルールでゲームをやってんだけど、全然、芝居っぽくないし、ミュージカルっぽくならないなって思っていました。これ一体、いつステージになるんだろうって、オレ、正直思ってて。そしたら、それがそのままステージなってくんですよね。で、気付くとそれが、ステージに上がる演劇に、あるときガーンとなってることに気付いて。うわ、なんじゃこのやり方って、ちょっとびっくりした。
藤田 やみくもにゲームしてましたね、初めは。最初、何をやらされてるのか、分かんなかったかもしれない。あれがだから、さっき大友さんもおっしゃったように、いわゆる演劇をやらすっていうことになると、やっぱりプロのまね事になってくんですよね。こういうせりふのしゃべり方してるっぽいとかっていうことを「そういうしゃべり方してよ」って言い方になるのは。実は、そんなことはプロとやってればいい話で、中高生とやることではなくて。中高生とやるべきことは、演劇に直接触れさせようとしないで、こういうことでも演劇になるんだよ、こういうことが実は、空間っていうものを把握することになるんだよっていうこと。僕が思う演劇は、実はいわゆるせりふを言うことだけが演劇じゃないみたいなことを、すごく回りくどく言うことです。今も僕はそう思ってるんですけど。
大友 かなり新鮮で、面白かったですね。多分、音楽もそうで。実際に中高校生で来る子って技術持ってるわけじゃもちろんないんですよ。確かに音楽って技術に頼るとこは多くて、楽器を演奏するって、やっぱある程度訓練しないと、もちろんできないことです。訓練は必要なんだけどオレ、そのハードルすら要らないと思ってて。ギターを持って、いきなりコードなんか弾けなくて当たり前だけど、弦は鳴らせるはずなんですよ。ポーンて。トランペットで音は出ないかもしんないけど、フーって音は出ると思う。あるいはポコポコポコって、こういう押す所の音とか。でもそれは、プーって鳴らす音と、このポコポコって音は、何の差もないと、思っていて。音の限りにおいては。そしたら、プーって音が仮に出ないとしたら、このカタカタって音で音楽作ればいいんですよ。ていうか、これで音楽になることもある。だからそれは、藤田さんが演劇させなくてもっていうのと一緒かな。させないっていうと変だけど。
藤田 そうですよね。
大友 もちろん楽器の場合は、あるうまい人に憧れて、それをまねすることで上達するってのもあるんだけど。別に、みんなプロ目指してるわけじゃないし、練習できる人もいれば、できない人もいる。だとすると、そんなに技術に寄らなくても。例えば歩くだけでもビートが出るじゃないですか。それがすごい複雑になったら、タップダンスになる。でも、みんながタップダンスできるかっていうと、そうじゃない。でも、歩くだけならできるじゃないですか。そういうものが音楽の原型、原石だと思うんです。それで十分、音楽の場は作れると思ってるんですよね。だから、技術を覚えることで音楽になるんだよっていう、教え方をしないほうが、いいと思っていて。音楽はみんな最初から持ってるんです。それをみつけていけばいい。
バラバラのまんまだけど、音楽が生き生きする
有馬 あるときに大友さんが「音楽っていうのは悪いところを直すんじゃなくて、いいところを伸ばすんだ」って言われたのが印象的でした。なるほど、そういうことを、ちりばめながらやってるのかなって。
大友 音楽の時間、地獄だと思ったんで。だから、それがずっと残ってて。学校の音楽の時間に、こういうふうに笑いながら歌えばいいみたいな教え方、やっぱり今でも違うなって思ってて。笑うって感情じゃないですか。感情を教育しちゃいけないんじゃないかって、思ってるんですよね、今でもね。だから・・・。
藤田 だからそれが、今、有馬さんもおっしゃった、悪いところを矯正するための音楽ですよね。こういうふうに、演劇も全部そうなんですけど、大人のようにできなかったら悪いっていうこととか。そういう感じが、いわゆる音楽教育だったり。
大友 欠点を怒るっていうか。「そこ、音がずれてる」とかって、すっごいおっかないんですよ。高校の吹奏楽部の先生とかさ。音楽やるのに、なんでそんな高圧的なのって、オレいつも指導見てると思う。いや、あんたできる? 本当に。人のこと言ってるけどって、どっかで思いながら、先生の指導を見てるんですけど。でもそんなことやっても、音って生き生きしないの。ただ、きっちり合うだけで。で、もう間違いなく、僕の経験で言うと、そんなことより「うわあ、今の音いいね」って言ったほうが、バラバラのまんまだけど、音楽が生き生きするんですよ。
藤田 実はそれ本当に、僕もそのことを思っています。一緒にやってるときに、大友さんもおっしゃってたんだけど。そもそもやっぱり音楽なんて、お祭りでやったりとか、あと儀式とか。いろんなところで、何かスペシャルなときに行われることが音楽っていう。人が持ってる機能じゃないですか。日常生活を過ごしてるだけじゃ、ちょっと違う味わえないことを、音楽とかリズムとか旋律とか、そういうことに求める。そのはずがなぜか、いまある、いわゆる音楽教育っていうものがあることによって、人の中に埋め込まれてる音楽っていうものが抑えられて、音楽ってこういうものだからっていうことを、矯正されてしまったんじゃないかって。大友さんのその言葉聞いたときに思ったんですよね。