札幌国際芸術祭

札幌国際芸術祭2017 テーマ芸術祭ってなんだ?

2回目になる札幌国際芸術祭のテーマは「芸術祭ってなんだ?」です。

今回ゲストディレクターへの就任依頼が来たときに、わたしがまず最初にひっかかり、そして今も考え続けているのが「芸術祭」ってなんなのかということです。「芸術」ってなんなんでしょう。それが「祭り」になるってどういうことなんでしょう。

震災後、わたしが取り組んできた活動の中でも、とりわけ大きな比重を占めてきたのが、これまでにない新しい「祭り」の創出でした。ここでいう「祭り」とは単に歌ったり踊ったりの場を作ることではなく、いや、それももちろん重要ですが、なにより、参加する前と後とで世界の見え方が一変するくらいの、そんな強烈な場を自分たちの手で作り出すことが、わたしの考える「祭り」です。今回はここに「芸術」や「国際」、そして「札幌」が加わります。さて、どうしていったらいいものか。

そんなことを考えれば考えるほど、これらの問いに対して自分一人で考えて、答えを出すのはもったいないと思うようになりました。市民参加の芸術祭ですから、市民の数だけ答えがあるはずで、こうした問いに対して、正解がひとつである必要なんてないと思います。正解とか、正論を探すのではなく、実際に手を動かし、誰かと何かを作るところから見えてくる何か、感じる何かであったほうがいい、わたしはそう考えています。100人いたら100通りの発想があり、それらが同じ方向を向かなくたっていい。むしろ向かないことで、ときに相互に反応しあいながらノイズが生まれたり、予想もできないとんでもないモノが生まれたり。そして、それを「豊かさ」として受け入れていく大きな度量の芸術祭でなければ、世界の見え方なんて変えられるはずがありません。

でっかい北の大地を舞台にした始まったばかりの芸術祭です。札幌や北海道の人たちがこれまでつくってきたものや、前回の芸術祭の残してくれたものを生かしつつ、耳をすまし、目をこらし、体で感じつつ、おおらかに、ときにやんちゃに、ここでしかできない「芸術祭」をみなでつくっていきませんか。やれ美術ではこうだ、音楽ではこうだなんてことは二の次にして「札幌ではこうだ!」と言えるような新しい「芸術祭」を目指してみませんか。ここで出会ったみなさんとならそれができそうな、そんな素敵な予感がしています。

札幌国際芸術祭2017 ゲストディレクター
大友 良英

札幌国際芸術祭2017 サブテーマガラクタの星座たち

すいません、いきなり「ガラクタ」なんて書くとびっくりされそうですが、いや実は「ガラクタ」どころか「ゴミ」って書いてもいいかなってくらいなんですが、でも札幌で芸術祭をやるときに、この言葉がとっても大切な意味をもつとわたしは思ったので、どうか勘弁してください。

札幌国際芸術祭の話が来たときに最初に引っかかった場所は、モエレ沼公園でした。世界的な美術家イサム・ノグチの遺作でもあり、彼のプレイグラウンドの構想が実現した唯一無二の公園です。ここはかつて広大なゴミ捨て場、まさに「ガラクタの墓場」で、イサム・ノグチがあえてその場所を選んだときのことばが「人間が傷つけた土地をアートで再生する。それは僕の仕事です」でした。そもそも、札幌市民の公園にしたいという要望から公園建設がはじまったことと、札幌国際芸術祭がもともとは小さな市民運動からはじまったという話が、わたしの中でいつしかリンクしていきました。

イサム・ノグチのモエレ沼公園を「はじまりの地」にしよう。そしてここに自分の作品を対峙させることから今回の芸術祭をはじめてみてはどうか、そう思うようになりました。かつて皆が音楽を聴くために使い、そして今は捨てられてしまったポータブルのレコードプレイヤーを、広大なゴミ捨て場であったモエレ沼公園に置くことからはじめてみる。それは自分なりの方法でイサム・ノグチが構想した「再生」を遡ってみることでもあります。同時に「芸術祭ってなんだ?」と問いかけることで、多くの人たちを巻き込みつつ協働で札幌でしか出来ないような芸術祭をつくっていければ…こうして、わたしなりの芸術祭の方向が見えてきました。

札幌のまちなかを挟んでモエレ沼公園の反対側にある芸術の森には、二十代のわたしに大きな影響を与えたクリスチャン・マークレーをはじめとした、音楽と美術のあいだから生まれた作家たちが作品を展示することになりました。彼らが手掛けるのは、ガラクタだったり忘れ去られたものや、見向きもされなかったものが、まったく新しい姿になって輝き出すような、そんな作品ばかりで、それははからずもイサム・ノグチの言う「再生」に呼応しているかのようです。だったら、それに答える形でモエレ沼公園のほうにもナムジュン・パイクがガラクタからつくった役立たずのロボットを置いてみたり、地下に眠っているガラクタを呼び覚ましてみたりするのもいいかもしれないぞ。アイデアはどんどん共振し共鳴していきます。

そのモエレ沼公園と芸術の森の共振の中心点に位置するのが札幌のまちなかです。本来、美術展示の場所ではない市内のいたるところをも芸術祭の舞台にしてしまおうということで、多くの市民の皆さんに協力を仰ぎました。

一番のヒントになったのは、札幌で長年独力で博物館をやってきた「レトロスペース坂会館」です。忘れ去られたもの、重要とは思われなかったものたちが、坂会館館長の独特の視点を通して輝きだしている姿もまた、イサム・ノグチの言う「再生」と同じことにわたしには思えました。まちなかには、音楽と美術のあいだだけではなく、テレビに市電、妖怪に食、僕らが日ごろ目にするデザインから民俗学や科学に至るまで、芸術と生活のあいだにある、ありとあらゆる広大な領域を相手にした作品たちに出てきてもらうことにしました。それは、まさに今現在の札幌や北海道そのものでもあり、僕らの住む世界そのものでもあります。そして、ここにあるものもまたモエレ沼公園に呼応するように、自分たちが捨ててきたものに向き合いつつ未来を発見していくような、そんな作品たちばかりです。

というわけで、今回の芸術祭は、とても1日では回れません。そもそもモエレ沼公園を見るだけでも1日がかりなのに、モエレと芸術の森の距離がおよそ25kmもあって、そのくらい広大な範囲に、音楽と美術のあいだや、芸術と生活のあいだにあるような作品が、星屑のようにたくさん点在しています。ひとつひとつはバラバラな作品たちですが、でもそのどれもが呼応しあっているようにわたしには思えます。よく見れば、それぞれが、それぞれのやりかたで、ガラクタだったり、ゴミクズだったり、気づかれないものだったり、忘れられた過去から生まれてきた作品たちです。

いち作家が作れるのは星屑の一つにすぎません。でもそんな星屑たちがあつまって星座のように繋がったときにみえてくるものこそが、イサム・ノグチの言っている「再生」なんだと思います。そして、その星座を描くことができるのは、作家ではなく、皆さん自身なんだとわたしは思っています。とても1日で回れないからと、あきらめないでください。どこかを重点的に見ることで見ることのできなかった遠くの星屑の連なり=星座が見えてくることもあるでしょうし、別の角度から見れば、同じ星たちがまったく違う星座の形をすることだってあるかもしれません。たった一個の星屑だってそこには尊い「再生」の物語があって、それが連なることで、より立体的な星座になっていく。でもその星座は小さくても大きくても、たとえ一個の星でも、それが見る人によってはガラクタだとしてもいいんだと思います。見た人の数だけ星座が生まれる、見た人の数だけ再生の物語がある、それが今回の芸術祭です。さあ、みなさんの星座を描いてみてください。