札幌国際芸術祭
大友 良英

原点、そして沼山良明

まだ学校に上がる前、子どもだった頃の一番の楽しみは、横浜の下町にあった母方の実家で毎週末のようにやっていた宴会でした。近所の人たちまで一緒になって坂本九を歌ったり、スーダラ節を踊ったり。美味しい料理に大人達はお酒、テレビにドーナッツ盤の歌謡曲。そしてなによりみんなの笑顔。この週末の宴会が間違いなくわたしの原点です。

その後福島に転校し、十代でフリージャズに出合って以降は音楽家になることしか考えていませんでした。東京に出たあとは、すぐに日本のフリージャズを牽引した高柳昌行に弟子入り。それはちょうど高柳さんがフリージャズからノイズに移行する時期で、とりわけ、その変化が劇的だったのが前衛ジャズ評論家でオーガナイザーでもあった副島輝人さんが仕組んだ1984年の北海道ツアーでした。この時わたしはアシスタント兼運転手としてツアーに同行しました。そのため高柳さんの変化に誰よりも大きな影響を受けたのは、いまでもわたしだと思っています。そして、このとき札幌公演を企画していた沼山良明さんとの出会いは、わたしにとって本当に大きなものでした。沼山さんは当時から私財をなげうって前衛的な音楽の紹介と企画を札幌でやり続けていて(わたしのコンサートも幾度も企画してくれました)、その姿勢や生き方、音楽を見つめる厳しい視線にどれだけ影響を受けたことか。これほどまでにピュアな先輩がいるってことが、どれだけ大きな励みになったことか。

クリスチャン・マークレー

音楽を飛び越えてさらに広い意味での芸術、アートの面白さを知ったのは翌年の1985年。クリスチャン・マークレーの「Record Without a Cover」と名付けられたレコードに出合ったときでした。そのレコードは、本当に裸のままむき出しでレコード屋さんに売られていたんです。レコードの前半にはほとんど音が入ってなくて、最初から録音されたレコードの傷の音なのか、あとからついた本物の傷の音なのか、判別のつかない作品でした。このノイズだらけのレコードが、音楽バカだったわたしの脳髄をどれだけ刺激したことか。「ぼくらが聴いてきた音楽ってなんだったんだ? それってレコード盤に刻まれたただのギザギザだったんじゃないか。そもそも人が演奏することって? 録音って?メディアって? 」たった一枚の傷だらけのレコード盤から、自分の立っている場所を思考しなおせることを学び、そこからそれまで考えたこともなかったような途方もない世界が見えてきたような気がしました。これがわたしにとってアートとの最初の出会いでした。

マークレーに会ってみたい。その夢は予想以上にはやく実現しました。1987年、マークレーが初来日しました。今でこそ美術家として世界的に知られるマークレーですが、当時は即興でレコードをコラージュするターンテーブル奏者として知られだしたころで、札幌公演は沼山さんの企画で実現しました。余談になりますが、彼が初めて日本に来た初日の晩に泊まったのは、よりによってわたしの小さなアパートでした。彼には迷惑だったかもですが、嬉しかったなあ。

毛利 悠子 / 撮影: 前田 直子
梅田 哲也 / 撮影: 島崎 ろでぃー
堀尾 寛太 / 写真: 小山田邦哉 提供: 国際芸術センター青森 [ACAC]

毛利悠子、梅田哲也、堀尾寛太

90年代にはいると、わたしは世界各地でターンテーブルやギターで即興演奏をするようになり、マークレーと共演する機会も得、同時に、中国映画の音楽をやったことがきっかけとなり、映画やテレビのサウンドトラックも手がけるようになりました。このころはプロフェッショナルな世界のエキスパートになろうとしていたんだと思います。ところが、そんなわたしの大きな転機となったのが2005年、神戸の「音遊びの会」という、障がいを持った子どもたちとの即興演奏のグループに参加したときのことでした。自分がやってきたことがここでは全然通用しなくて、ただただ呆然とするばかり。なのに当の子ども達の方は、生き生きと演奏をしているんです。まいりました。子どもたちの出す音を前に、これまで自分がこだわってきたものが、なんぼのもんでもないことを思い知った瞬間でした。プロもアマチュアも、大人も子どもも関係なく、とにかく出会った人たちと向き合いながら音楽をつくってみよう。そんなことを思いはじめたのがこのときでした。

そして、もうひとつ。2005年は、当時まったく無名だった若いアーティストたちのグループ展に人生がかわるような衝撃を受けた年でもありました。毛利悠子、梅田哲也、堀尾寛太。たまたま彼ら彼女らの展示を大阪で見たときに、本当に人生が変わるくらいの衝撃を受けたんです。なにしろ、展示だっていうのに、常に変化しつづけていて全然美術作品には見えない。巨大なコイルのようなものが磁気の力で勝手に発電して高周波を出していたり、巨大なバルーンの周辺の音の位相がへんなふうに変化していて、まるで高いところに突然行ったときのように耳がつまったり…そんな音にまつわる現象のようなものが起こっていて、それが理屈抜きに面白くて面白くて。

「これはもしかして、まったく新しい音楽なのでは? それとも、これまでにないまったく新しい事態なのかも…」

障がいをもった子ども達と、謎すぎるこの展覧会。ふたつの出会いをきっかけに今まで稼働してなかった脳みその領域が突然動きだしたような感じがして、それはマークレーの裸のレコードに出合ったとき以上のインパクトで、結果的には自分でもなにかをやらずにはいられなくなり、たくさんの人たちとわいわいやりながらつくる《Without Records》や「Ensembles」展、ほかにも一般の人たちとやる即興オーケストラ等々、以後、数え切れないほどのプロジェクトや展示をやることになり…と、その辺の経緯は近著「音楽と美術のあいだ」に詳しいので、ぜひ参照していただければ。

大風呂敷

これで、もうやりたいことはほぼやったぞと思っていた矢先にやってきたのが2011年の東日本大震災でした。福島で育ったわたしは、全ての活動を一旦中断してすぐに福島に行き、たくさんの人たちとともにプロジェクトを立ち上げ、悩みに悩んだ挙句大きな「祭り」をやることになりました。放射線対策もあって多くの人たちと大風呂敷を縫い合わせて祭りの会場に敷き詰めたり、楽器経験のない大勢の人たちとオーケストラをつくったり、盆踊りをやりだしたり、そんな流れの中で「あまちゃん」の音楽をやることになったり、福島から移住してきた人たちとともに札幌でも盆踊りをはじめたり。でも、それはこれまでやってきたことが全部ひっくりかえってしまったというよりは、今までやってきたこと全てが渦を巻いて、切実なものとして迫ってきた感じとでもいったほうがいいかもしれません。結果的にはこの活動があったからこそ札幌国際芸術祭から声がかかったんだと思います。

テニスコーツ

その芸術祭をやるにあたって真っ先に思い浮かんだアーティストがテニスコーツの二人でした。完成したものを見せるのではなく、立派ななにかになるのでもなく、その場にいる人たちを巻き込みながら、その場でしかできないなにかをあれやこれや試しながらやってみる。つくってみる。そんな彼らの活動は、震災以降、わたしにとって、まるで暗闇に光るちいさな灯台のようにも思えました。彼らが照らす方向にかすかに見えるなにかを言葉にするのはとっても難しいのですが、でも、それは決してプロフェッショナルな世界では見ることのできない、あの音遊びの会の子ども達の持っている輝きそのもののようにも思え、また同時に2005年に大阪でみたあの謎の展示の音楽版のようにも思え、わたしにとっては「芸術祭ってなんだ?」の答えのようにすら思えました。彼らみたいな芸術祭をやってみたいなあ。

テニスコーツには会期中、ずっと札幌にいて自由に動いてもらおうと思っています。事前に決められたものをつくったりやったりするのではなく、芸術祭に即興的に反応しながら、見えてきたものを地元の人たちとともにシェアしていくような、そんな役目を担ってもらえたら最高だなって。

「芸術祭ってなんだ?」という問いを 今もう一度とらえてみる

この問いに対して、当初は、芸術が集まって祭りになるという素朴なイメージをもっていました。でも途中からちょっと違う考え方をしたくなってきました。それは、祭りそのものを自分たちの手でつくっていくなかで、見えてきたものを芸術と呼んだほうが、本来の芸術のありかたに近いのではということです。震災後の福島で必要に迫られて敷いた風呂敷から大風呂敷プロジェクトが生まれたように。あるいは、テニスコーツの照らす光の先に見える何かのように。 ずっと前から坂本九が大好きで、高校でフリージャズにかぶれ、高柳さんや沼山さん、クリスチャン・マークレーに出会ったことで人生が大きく変わったノイズ青年が、30年後に大風呂敷を皆で縫い合わせて盆踊りをやることになるなんて、少なくとも、本人にとっては、まったく予想もつかなかったことです。人、音楽、アート、そして震災と祭り、あらゆるものとの出会いが、わたしの人生をつくってきたんだと思います。わたしだけじゃなく、ひとりひとり、みな異なる歴史をもっているわけで、そんなもんが、カオスのように一緒くたになって、過去も未来も飛び越えて笑いながら祭りの体をしている…これがわたしにとっての芸術祭のイメージです。

大風呂敷プロジェクトも、地元の子ども達とつくる「さっぽろコレクティブ・オーケストラ」も、クリスチャン・マークレー、毛利悠子、梅田哲也、堀尾寛太らに作品をつくってもらうのも、沼山さんのアーカイブも、ここに書いてきたように極めて個人的なわたしの歴史の中から出てきた企画のアイディアです。でも、これをわたし個人の歴史の中に収めてしまうのではなく、それに対して見る人たちがどんどん化学反応を起こしていけるような仕掛けをつくることで、芸術祭は生きたものになっていくんじゃないかって思うようになってきました。その大きなヒントになったのが、札幌が誇る文化遺産でもあるモエレ沼公園の成り立ちであったり、沼山さんが、札幌で長年活動をしてきた軌跡であり、レトロスペース坂会館が長年やってきたことでもあると思っています。

たった1枚のノイズだらけのレコードから広がる世界だってあるわけで、そんな個人の経験が札幌と化学反応を起こし、さらにはそんな化学反応が、この芸術祭に参加した人の数だけ集まったときに、札幌にしかない芸術祭の姿が見えてくるんだと思います。

レトロスペース坂会館 / 撮影: 藤倉 翼